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東京地方裁判所 平成2年(ワ)15572号 判決 1993年2月25日

原告 黒田二郎 外1名

被告 黒田一郎

主文

一  原告らと被告との間において、別紙一記載の内容の亡黒田宏宣(本籍東京都○○区○○×丁目××番地、明治38年12月27日生、平成2年8月30日死亡)の昭和63年3月22日付自筆遺言証書による遺言が無効であることを確認する。

二  原告らと被告との間において、別紙二記載の内容の右亡黒田宏宣の西暦1989年8月3日付自筆遺言証書による遺言が無効であることを確認する。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

主文同旨。

第二事案の概要

弟と妹である原告らが、兄である被告が検認の申立てをした亡父の遺言書2通による遺言について、その遺言当時、亡父に意思能力がなかったことを理由に、無効であることの確認を求めた。

一  争いのない事実

1  原告ら及び被告は、いずれも亡黒田宏宣(以下「宏宣」という。明治38年12月27日生、平成2年8月30日死亡。)の子であり、被告が長男、原告黒田二郎(以下「原告二郎」という。)が次男、原告今川広子(以下「原告広子」という。)が長女、訴外山岡佐知子(以下「佐知子」という。)が次女である。

2  創業者である宏宣を中心に、原告ら及び被告を含む黒田一族は、株式会社黒田家具卸センターを中核とする黒田グループの複数の企業を経営していた。宏宣は、昭和62年3月5日、脳梗塞のため、○○○○医大付属病院に入院し、同年8月6日、同病院を退院して、自宅療養していたが、同年10月15日、痙攣を起こして、国立○○○○病院に入院し、同年11月28日、同病院を退院して帰宅した。

3  原告らと佐知子は、平成元年6月9日、東京家庭裁判所に対し、宏宣を禁治産者と宣告することの申立てをした。同年12月19日、原告らと佐知子の申立てに基づき、同裁判所は、宏宣の財産管理人として弁護士大野明子を選任した。

4  宏宣は、平成2年6月25日、心臓発作により、熱海市内の○記念病院に入院し、同年8月30日、死亡した。

5  被告の申立により、平成2年11月21日、静岡家庭裁判所熱海出張所において、別紙一記載の内容の昭和63年3月22日付自筆遺言証書(以下「第一遺言書」という。)及び別紙二記載の内容の1989年8月3日付自筆遺言証書(以下「第二遺言書」という。)が検認された。

二  原告の主張

第一遺言書及び第二遺言書は以下の理由により無効である。

1  右両遺言書作成時、宏宣には意思能力はなかった。この二つの遺言書は宏宣の意思に基づき作成されたものではない。宏宣は、昭和62年3月4日に脳梗塞で倒れてから、事理を弁別し判断する能力を失い、平成2年8月30日に死亡するまでの間、意識が正常ではなく、判断能力を回復することはなかった。

2  右両遺言書に顕出されている印影は、宏宣の印鑑によるものではない。右各印影は、宏宣が脳梗塞で倒れて入院した後、被告が宏宣の実印を勝手に改印して所持していた印鑑によるものである。

3  宏宣は、生前、自己所有の財産について法定相続分のとおり分配することを希望し、兄弟である原告ら、被告及び佐知子に各不動産をそれぞれ割り当てることを決めていたのであったが、右両遺言書の内容は宏宣の生前の意思とは全く相反するものであって、それによっても右両遺言書が宏宣の意思により作成されたものではないことを示すものである。

三  被告の主張

第一遺言書及び第二遺言書は、いずれも宏宣が自己の意思に基づき、適式に作成したものである。宏宣は、2度の入退院の後自宅においてリハビリテーション訓練を行うなどして、相当程度機能を回復し、同居家族や付添看護婦との意思疎通に欠けるところがなく、両遺言書ともに自らの発意に基づき作成したのであった。殊に第二遺言書は、原告らが宏宣を禁治産者とする宣告の申立てを知って激怒し、これが直接の引き金となって作成されたものであり、作成に至る経緯から見ても宏宣の自発的意思によることを示すものである。右両遺言書は宏宣が左手で自ら書いたものであり、脳梗塞の後遺症により身体機能に不完全な点はあったが、大きな文字を左手で書くことは可能であった。

四  主たる争点

第一遺言書及び第二遺言書がいずれも宏宣の自筆によるものであることは認められるので(乙1・2の各1・2、証人○○、証人○○○○、被告)、この2つの遺言書を書いた当時、宏宣に意思能力があったかどうか、が主たる争点となる。

第三判断

証拠(甲1、2、5~15、20、24~34、351・2、36~40、乙11・2、21・2、3~7、81・2、91・2、101~3、11~14、151~3、161~4、17~19、201・2、211・2、22、231・2、241・2、25~27、281~4、29、30、311~3、32~34、351・2、361・2、37~44、証人○○、同○○、同○△○、同△△、同○○○○、原告黒田二郎、同今川広子、被告)により次のとおり判断する。

一  経過と症状

1  脳梗塞による1回目の入院

(一) 宏宣は、昭和62年3月4日、右手のしびれを訴えて、○○○○医大付属病院の診察を受けた。その日はいったん帰宅したが、翌5日、再び診察を受け、CT検査の結果、脳梗塞の病変が認められたので入院した。

(二) 同月10日、言語外来の○○医師の診察があり、所見として、聴覚性言語理解の著しい障害が認められること、発話障害は失語によるものではなく、麻痺性の構音障害(運動麻痺に伴って発音が一部不明瞭になること)によること、理解障害は回復困難の可能性が強いこと等が挙げられ、感覚性失語との診断がなされた。

(三) 同年4月14日、言語外来の○○○○言語療法士の所見では、感覚性失語に構音障害を合併しているとされた。

(四) 同年6月16日、言語外来の○○医師は、重度の全失語であって、言語を介しての情報入力は殆どできない、との診断を下した。

2  退院前の言語外来の医師の診断

(一) 昭和62年8月4日、宏宣を診察した○○○○医大付属病院神経内科言語外来の○○○○医師(以下「○△医師」という。)は、ウェルニッケ失語症であると診断した。失語症は、脳の損傷によって言語機能が障害される症状を言うが、その代表的なものとしては、ブローカ失語症(なめらかに話せなくなる。)とウェルニッケ失語症(言語は流暢だが、内容に誤りが多く、人の話を理解できない。)とがあり、一般に、ブローカ失語症では理解障害は軽いが、ウェルニッケ失語症では非常に強い理解障害が出ると言われている。

(二) ○△医師の右診察当時、宏宣には次のような症状があった。なめらかに話せることもあったので流暢性の失語とみられたが、ジャルゴン(日本語として聞き取れないような意味不明の音)も混じっていた。眼鏡や鉛筆等の物品を見せて、そのうちのどれが眼鏡かを聞いても答えられず、物品の名前を言わせようとしても答えられなかった。○△医師の発した言葉を復唱できず、手を挙げて下さい等の指示に対しても反応しなかった。新聞を読ませてみると、ごく一部の単語は読めたが、同医師が眼鏡等の特定の物品の名前を書いて読ませようとすると読めなかった。書字をさせたところ、自分の氏名だけは書けたが、住所や「今日は良い天気です。」との文章は書けなかった。ごく軽い構音障害も見られた。なお、構音障害は、失語症とは全く別のもので、失語症と合併することもある。

レントゲン写真を診たところ、一般にウェルニッケ失語症を起こす病巣として知られている左の側頭葉から頭頂葉にかけて病巣(脳梗塞による損傷)が存在した。軽度の脳萎縮はあったが、○△医師は年齢相応のものと判断した。

(三) 以上のような診察時の宏宣の症状、レントゲンの所見に加え、宏宣の右症状が昭和62年3月の発病から約5か月を経過してもなお存在していること(失語症の自然回復は通常3か月以内と言われている。乙40。)等を総合して、○△医師は、宏宣をウェルニッケ失語症と診断し、同人の言語理解が極めて強く障害されているか、あるいは少なくともコミュニケーション能力を伴う言語機能は「全廃」したと判断した。

3  退院と2回目の入院

(一) 昭和62年8月4日から○○○○○が宏宣に付添って面倒をみた。宏宣は、同月6日、○○○○医大付属病院を退院した後は○○や家族と共に機能回復訓練を行った。

(二) 同年10月15日、発作や痙攣があり、救急車で国立○○○○病院に入院した。○○○○医師(以下「△△医師」という。)が宏宣を担当した。この2度目の入院中詳しい言語検査はなされなかったが、当時のカルテの記載によれば、看護婦が氏名を聞くと「ひとによってさまざまで……」と答え、年齢を聞くと「ひとによっていろいろで……」と答え、みかんを見せてこれは何かと聞き「み」というヒントを与えても「しゅ」と答え、眼鏡を見せて聞くと、「しょ、しょうべん」と答えた等の記載がある。

4  2回目の退院後

(一) 同年11月28日、宏宣は国立○○○○病院を退院しだが、その後も平成元年12月20日まで外来通院し、△△医師の診察を受けた。

(二) 宏宣はその後もリハビリテーション訓練を行った。宏宣を撮影した多くの写真中、宏宣がコップを持っている写真(乙102、12、153)もあるが、そのうちの2校(乙12、153)ではエプロンを掛けている(乙12は焼肉用のエプロンと別に掛けている)。

5  家裁調査官の来訪

原告らが申し立てた禁治産宣告事件の審理のために、平成元年9月14日、東京家庭裁判所の○○調査官が調査のために宏宣宅を訪れた。宏宣は車椅子で食堂に現れたが緊張して全く発言できず、筆談もできなかった。10分位の面接の後半に宏宣は目に涙を浮かべて失禁した。

二  意思能力の有無

1  証拠により認められる右経過や症状からみて、宏宣は、第一遺言書及び第二遺言書を作成した当時、その内容と効果を理解した上で、これを書く能力がなかったものと判断する。

被告は、失語症と意思能力及び理解能力は関連がないと主張した。その主張のとおり失語症イコール知能障害という考えは今や過去のものである(乙41)との指摘もあり、失語の状況がそのまま理解能力に比例するとは考えられない。

しかし、昭和62年8月4日の○△医師の診察時において、宏宣はどれが眼鏡かと問われても答えられず、手を挙げるようにとの簡単な指示にも反応できなかったこと等を考えると、宏宣がウェルニッケ失語症だったのか否かはさておいても、その当時、単に言葉を発することができないにとどまらず、ごく簡単な事柄の理解能力すら喪失していたことが窺われる(言葉を発することができないだけなら、眼鏡を指差したり、手を挙げたりできるはずである。)。宏宣は自分の名前を書けたとのことであるが、症状が相当程度進行した場合でも、一般に自分の名前を書く能力は維持されることが多いから、名前を書くことができた事実に重きを置くことはできない(乙43、証人○△)。同月10日に診察した○○医師も同様に、宏宣の理解障害の回復は困難である可能性があると診断したのであった。

被告は、○○○○医大付属病院のカルテ(甲14)中に、「かなり文章を言えるようになってきた。」との記載や、××教授の発言として「会話ができるようになったんだね。」との記載があると指摘した。しかし、前者の記載は患者の訴えを書き留める欄の記載であるが、当時の状況からすると、宏宣自身の発言ではなく、付添者の発言を記載したのではないかと推測されるし、後者の記載はその3日前にジャルゴン(錯語よりも意味不明の程度が高い。)があること等から考えると、患者の家族を激励するために××医師が発言した可能性も捨て切れないし、またこれらの記載はもっぱら言葉を発したかどうかに関するものであって、宏宣の理解能力の存在を証するものとしては不十分である。また、被告は、宏宣が問いに対してうなずいたことがあったことを理解能力があったことの証拠としてあげているが、うなずくことと理解とは別の問題であり、重症失語症患者はどのような問いにもうなずくことが多い(証人○△)ことからも、十分な証拠とは言えない。このように宏宣が○○○○医大付属病院に入院していた当時は、単に失語症状が存在していただけではなく、十分な理解能力や判断能力があったと認めることはできない。

さらに家裁調査官が来訪した平成元年9月14日(第一遺言書作成時の昭和63年3月22日及び第二遺言書作成時の平成元年8月3日のいずれよりも後である。)においても、前認定のとおり全く言葉を発することができず、失禁したことから考えて、宏宣の症状はほとんど改善していなかったものと推認される。被告は、宏宣のような患者が特に緊張した状況下におかれた場合には、失禁等の反応を示すことはあり得ることであるから、これを以て意思能力についての消極的材料とするのは相当でないと指摘するが、特別の緊張下にあったことは否定できないとしても、いずれにしろ家裁調査官に対して前認定のとおりの異常反応を示した宏宣が、自分の全財産の処分内容を明確にする遺言書作成を自らの意思でできたとは到底考えられない。

△△医師の証言中には、同医師が宏宣を診察した当時、宏宣の受入能力には若干の困難はあったが、いったん受入れればその後の判断には問題なく、その意味で会社経営や財産処分、家族のトラブル等の高度な問題についても判断能力があると判断した、とする部分がある。医師の証言として軽視できないが、その証言によっても受入能力つまり理解能力は十分ではなかったのであるし、理解能力が不十分なのに判断能力が十分であったとの見解は理解困難である。のみならず同医師の右証言部分は、原告代理人弁護士の依頼により自ら作成した平成元年5月26日付「報告書」(甲2)中の「日常生活上の会話程度の単純なことは理解できても複雑な事柄を理解できるとは思われません。」との記載とも矛盾し、○△証言等とも対比すると、宏宣の意思能力の存在を示す積極的証拠として採用することに躊躇せざるを得ない。

2  失語症ないし理解障害は劇的に回復することがあるが、その回復期間の目安はおおよそ発病から3か月であるとされていること(乙40、43、○△)を考え併せると、○○○○医大付属病院入院後、宏宣の症状には飛躍的改善はみられず、少なくとも家裁調査官の来訪時までは、失語症及び理解障害が存在していたものと認められる。

なお、被告は○△医師の1回だけの診察による診断に重きを置くことの危険性を指摘したが、例え数が多くなくとも専門医師による診断結果は尊重に値するし、当裁判所は、その前後はもとより宏宣が死亡するまでの症状に関する本件全証拠につき慎重な検討を加えたものであるから、その非難はあたらない。

以上の次第で第一遺言書及び第二遺言書作成当時、宏宣にはその内容及び効果を理解してこれを遺言書に書き記す能力があったとは認めることはできないから、その無効確認を求める原告らの請求には理由がある。

(裁判長裁判官 高本新二郎 裁判官 佐藤嘉彦 釜井裕子)

(別紙一)

ゆいごん

私のざいさんのすべてを長男の黒田一郎にそうぞくさせる

黒田宏宣

昭和63.3.22日

(別紙二)

私のすべてのざいさんを長男・いちろうにそうぞくさせる

黒田宏宣

1989 8 3

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